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大阪本王子

大阪本王子(おおさかもとおうじ)は、大阪峠(逢坂峠)の麓にあることから名づけられたと見られる。逢坂峠は近露側から登るには相当の急坂であることから、古くから大坂と呼ばれており、『為房参詣記』や『中右記』に大坂の地名が登場している。
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江戸時代には「大坂王子」「相坂王子」とも記され、『続風土記』には社殿はなく碑のみとし、御幸記より大坂本王子の跡地と推定しているが、『熊野詣紀行』には小社ありと述べられている。現比定地に遺されている笠塔婆は、他に見られるものと同じく鎌倉時代後期に造立された町石卒塔婆である。

所在地 田辺市中辺路町近露逢坂2511
比曽原王子(ひそはらおうじ)は、近露道中から約2kmほどの国道の左手の土手の草叢のなかにあり、緑泥片岩の碑のみが遺されている。社祠があったあたりは杉植林地になってから時間がたっており、痕跡は見出せない。道中からは茶屋坂を登って国道に一度合流し、楠山坂を登ってゆく。

比曽原王子の名は『愚記』や『熊野縁起』に見られる。早い時期に退転したためか、紀州藩の碑が建てられた当時も由来が知られていなかった。1739年(元文4年)の参詣記『熊野めぐり』に、碑について言及があるが、近隣の住人に尋ねてもその由来を知る者がいなかった、と述べられている。

この近くには手枕松というマツの名木があったと伝えられ、江戸時代の文人の紀行文の類では、こちらの方がむしろ関心を集めていたようである。

所在地 田辺市中辺路町野中字比曽原1143
中ノ河王子(なかのかわおうじ)は、継桜王子のある野中集落を出て、高尾隧道口を過ぎてまもなく、国道の側方の山中にある。旧址には、紀州藩の緑泥片岩碑があるばかりある。『中右記』には「仲野川王子」の名で既に登場しており、設立が古いことがわかる。『愚記』10月14日条に「中の河」なる王子の名が挙げられており、『承元参詣記』から後の時代は「中川」の表記が定着する。

他方で荒廃も早く、『道中記』には社がないと述べられている。1723年(享保8年)には紀州藩が緑泥片岩の碑を建てたが、明治末年には、碑だけしかないことから金毘羅神社(現・近野神社)に合祀された。

所在地 田辺市中辺路町野中字高尾2177

小広王子 [編集]
小広王子碑。上部が欠損し、「王子」の文字の跡も薄れている。小広王子(こびろおうじ)は、中ノ河王子から続く小さな峠にある。『中右記』10月25日の条に、「仲野川王子」に奉幣の後、「小平緒(こびらお)」「大平緒(おおびらお)」を経て岩神峠に向かっている。『愚記』にも、中ノ河の次はイハ神と述べている。また、『建保御幸記』には、同じ読み方ながら、「小平尾」「大平尾」と異なる表記で記述があり、小広王子の成立は遅かったものと見られる。

史料上の初出は、『道中記』(1722年)には「小広尾」なる王子の名が登場するが、既に社は失われていたという。紀州藩が緑泥片岩碑を建てた地は、明治末期には金比羅神社(現・近野神社)に合祀廃絶された。1899年(明治32年)に県道(現・国道311号線)の道路改修に際して、小広峠の道筋は大きく掘り下げられ、その工事に際して碑が現在地に移された。碑は上部が欠損しており、下部の「王子」の文字がわずかに読み取れるのみの状態である。

所在地 田辺市中辺路町野中字小広1

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2009年03月18日 12:09に投稿されたエントリーのページです。

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